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Illustration | Rina Matsudaira

瑞貴のブローチ 

inspired by 六条御息所

瑞貴は京阪電車を降りると、四条大橋をつかつか渡って右にひょいと曲がり、慣れた様子で先斗町を歩く。石畳の小さな通りには、スマホカメラでしきりに写真を撮る外国人観光客の姿ばかりが目立つ。瑞貴は彼らを気にもとめず、迷いなくバーまでたどり着くと、見るからに重たそうな鉄のドアを片手で押し開けた。


カランカランとベルが鳴る。瑞貴が姿を現わすや、奥のテーブル席を占拠するグループが一斉にふり向き、視線が飛んできた。ひそひそ話をはじめる男たちのはしゃいだ反応を一顧だにせず、瑞貴はカウンターの高いスツールに腰を下ろす。高身長の女性はとかくそれを気にして猫背になりがちだが、瑞貴は一七〇センチの背丈を誇るように背筋をピンと伸ばし、臆せず高いヒールも履いた。


腕時計を見ると、約束の時間より五分遅れての到着だった。わざとじゃない。そう自分では思いたい
 
ところだが、少し遅れて主役のように登場したいのが本心だった。先に到着した相手をたっぷり待たせてから、颯爽と現れたかった。五分程度の遅刻ならちょうどいい、そう思いながら電車に揺られたというのに、店に入るとカウンターは見事に空っぽ。思惑が外れ、嫌な予感がする。やっぱり来ないほうがよかったかも。


瑞貴はさっそく後悔しながら、ギムレットをオーダーした。

 

 

 

 

東京生まれ東京育ちなのにわざわざ京都の大学を目指した瑞貴は、人々が評するように、たしかに少し変わり者だ。一筋縄ではいかないプライドの高い女。切れ長の目と高い頬骨、めったにニコリと笑わない薄い唇。家柄のいいお坊ちゃんお嬢ちゃんばかりが通う都内の私立小学校に行ったが、政治家や有名人の二世、三世といった同級生たちのバックボーンが安っぽく感じられるほど、その家柄は由緒正しいものだった。苗字を言えば、誰もがピンとくる類の。

 


「瑞貴がそんな強気でいられるのは、結局いいとこの生まれだからだよね」


 
外部生のクラスメイトから嫌味を言われたことも一度や二度ではない。


瑞貴はちくりと胸に痛みを感じつつ、それを気取られないように押し隠した。


本人はそのルーツを、鼻にかけるどころか毛嫌いしていた。歴史の教科書に載った祖先の威厳たっぷりの肖像写真に、カイゼル髭を落書きするような娘だった。中学からは男女別学となり高校にも進んだが、内部進学できる都内の名門大は蹴って、一般入試で京大に入った。知り合いのいない土地でのゼロからの暮らし。やっと息ができると、せいせいした気持ちだった。

 

 

 

 

カランカラン。扉が開いて、瑞貴は思わず顔を上げる。

 

「おおーこっちこっち」


そこには見知らぬ人が立っていて、テーブル席の男たちがすかさず手招きした。


……なんだ。つい舞い上がった自分に腹を立てながらギムレットを呷ると、グラスのふちに口紅がべっとりついてしまった。親指の腹で汚れを拭い、そのぶん剥げたであろう自分の唇が気になる。

 

ハンドバッグからコンパクトを取り出す。鏡を覗き込んでいると、耳元で「よっ」 、いきなり声がした。驚いた瑞貴は手を滑らせ、持っていたコンパクトを床に落としてしまう。カチャンと軽い音がする。


光昭が屈んで床からコンパクトを拾い上げた。
「鏡はセーフや。あ、アカンわ、ファンデーション割れてしもた」


まだ新品同様だったパウダーファンデーションは粉々だ。


「げ」
「お前、挨拶も抜きに『げ』て」
「ああ、ごめん。久しぶり」
「久しぶりやなァ」


光昭は英国紳士ばりに洗練された動きでスツールに腰掛けると、「水割り」。ウエイターへの気遣いのない、いかにも“ 若旦那 ”らしい尊大な態度で言い放った。


「すまんなァ、新しいのん買うてやろか?」
「いらないし。こんなのいくらでも直せるから平気」
「直せるんか?」
「光昭、ネットって知らないの?」


ちょっとバカにして言うと、光昭は一拍おいてガハハと笑った。光昭はこういうキツめのつっこみがお好みなのだ。みんな光昭には遠慮して、耳ざわりのいいことしか言わないから。それを知ったうえで瑞貴は、まるでサービスするみたいに光昭好みの言い方をしたに過ぎない。


うまくいなしているように見えて、瑞貴は内心うろたえていた。格好よく登場しようとたくらんでいたのを、逆に出し抜かれてしまった挙げ句、ものを落として壊すだなんて。ああやだ、みっともない。


「なに飲んでるん?」
「ギムレット」
「ハハ。ギムレットには早すぎる、やなァ」
「……そうね」


つい、知ったかぶりをして流してしまう。


「ちょっと失礼」


駆け込んだトイレの個室で、瑞貴は生成AIに質問した。
〈ギムレットには早すぎるってどういう意味?〉
 
〈「ギムレットには早すぎる 」という言葉は、レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説『 長いお別れ(The Long Goodbye)』に登場する有名なセリフです。
 
" It's a bit too early for a gimlet. "が元の英語表現で、このセリフには、時間的に早すぎるという意味だけでなく、感情的な整理がついていないといった意味合いが込められています〉

 

便座の蓋に座りながら、瑞貴はふと自分がやってることの間抜けさを顧み、くくくと肩を震わせて笑った。


もう、これだから。


光昭の前だと調子が狂うのだ。世間知らずで、無知で無力な、学生時代の自分に引き戻されてしまう。

 

 

 

 

光昭と出会ったのは、忘れもしない〈進々堂   京大北門前〉。


「こいつお香屋のぼんぼんなんだ」


彼氏にそう紹介された光昭は、まだ二回生だというのに院生のカップル相手に堂々たる態度で、なんと先輩の彼女である瑞貴に言い寄ってきたのだった。あろうことか、瑞貴も光昭に惹かれた。


あの頃の光昭は、それはもう美しく、有無を言わせないものがあった。若い時分の外見の輝きというのは、すべてを凌駕する最大級の権力だ。この年代の四歳差は大人と子どもくらい経験値が違うものだが、光昭はそれを感じさせないほど博識で、遊びも知っていた。瑞貴はただもう光昭のそばにいられるだけで恍惚となった。


あの頃は、自分のしていることがどれだけ卑劣かわからなかった。彼氏を欺き、裏切り、略奪される背徳的な喜びに身悶えした。けれど、それだけだった。光昭はすぐに別の女に心変わりし、瑞貴のもとに残ったのは罪の意識のみ。なにより堪えたのは、事情を知る周囲の人々の冷たい視線だ。瑞貴の味方をする者は誰もいない。光昭はといえば、危険なプレイボーイとして株を上げていたが。


瑞貴は修士論文を提出できず、大学院を中退した。もはや京都にいることができず、逃げるようにアメリカのロースクールへ留学し、吐くほど勉強して、ニューヨーク州弁護士資格を取得した。

 

 


 

 

「アメリカ、いま危なないか?」
「危なくたって仕方ないよ」
「京都戻ったらええやん」
「戻るなら東京だし」
「いま一人なんやろ?」
「そうだけど」
「ほしたら身軽やん」


たしかに身軽だ。けれどようやく自分の使命を見つけたところなのだ。そう簡単には手放せない。瑞貴の人生の本編は、アメリカに渡ってからはじまったと言っても過言ではない。就職も、結婚も離婚も、すべてアメリカで経験した。相手はイタリア系アメリカ人だった。一緒にいて楽しい人だったが、結婚してから少しずつ本性が見えてきた。妻をコントロールしないと気が済まない典型的なモラルハラスメント。あれだけタフだった自分が、夫の顔色をびくびく窺うようになったのには驚いた。こんなのおかしいとようやく気づき、カウンセラーの元に通って自分を取り戻した。家を出て一人で暮らし、四年かけて離婚を成立させた。経験を生かして、国際結婚した在米の日本人の離婚裁判を専門に扱う。

 

「恋人おるん?」
「いるよ」
「ほぅか」
「日本人女性ってあっちでモテるからね」
「ハハ、想像つくなァ。自己主張の激しいアメリカ女に懲りて、癒やし求めるんやろ?   日本人は大人しいからなァ」


そこにつけ込まれるのだ。国際結婚はロマンティックだが、相当な英語力と、資格やスキルがなければ満足な収入は得られず、生活のあらゆる面で夫に依存することになる。となると、離婚したくてもできない。そういった女性たちを救うために全米を飛び回っているのだ。今回、京都に来たのも、クライアントの女性に同行したためだった。守秘義務があるから光昭には明かしていないが。


「そっちは再婚したんだって?」
「よぉ知ってんなァ」
「Facebookにおめでとうって書き込みましたけど」
 
光昭はけらけら笑う。その横顔を見て瑞貴は、悔しいけど男盛りだな、と思った。


全部Facebookのせいだ。Facebook でつながっているせいで、まだ忘れられない。日本に帰るたび、瑞貴から連絡して、こうして会って、近況を報告し合う。


「奥さん、どんな人?」
「年下やで。六つ下やったかいな」


光昭は脂下がって自慢げに言う。その口調に瑞貴は、こんな軽口を叩いた。


「光昭、見た目はまだ若いけど、そういうとこはもうしっかりオジサンだね。どんな人か訊かれて真っ先に歳のこと言うなんて」


ははは。光昭は鷹揚に笑ってみせたが、図星だったのだろう。


「ほななんて答えるのんが正解なん?」角が立つ言い方だ。瑞貴はそうだなぁと考え、「仕事とか趣味とか?」と言う。


瑞貴の趣味はキモノである。アメリカに行ってから日本人のアイデンティティを意識するようになり、

YouTubeで着付けを勉強した。アンティーク・マーケットでガウンとして売られているキモノを買い集め、パーティーがあれば着て出かけた。

 
「あいつの趣味は知らんなァ。けど、仕事は好きみたいや。嫁はんに給料出してんねんで?   嫁はん、自分のもんはそれで買うてるわ」

「あ、そういう人なんだ」


瑞貴は小さくショックを受けた。

 

社長夫人としてふんぞり返って、旦那のお金で悠々自適に暮らしているお気楽な人だったら、鼻で笑えたのに。


「よさそうな奥さんですこと」
「せやなァ」

 

目尻を下げる光昭を、瑞貴は苦い気持ちで眺めた。


ああ、今回もまた負けだ。だけどこれから先、光昭が太ったり禿げたりして、女に見向きもされなくなった姿を見届けるまでは、こうしてへばりついてやる。


瑞貴はそんな呪いを込めて、「光昭の再婚に」、乾杯のグラスを傾けた。

 

 


 

ディナーの前にサクッと一杯だけ、そういう約束だった。店を出てまたねと別れ、京都の街を 彷徨していると、まだ明かりをつけたお店があった。ふらりと入るとそこはアンティークショップで、ガラスケースには色とりどりの宝石が光る。指輪やネックレスには目もくれず、瑞貴の心はブローチに奪われた。孔雀の羽根モチーフのブローチを見た瞬間、あれは私だと思ったのだ。こうありたいと思う自分。理想の自分。気品があり、誇り高く、だけどそのせいで、いつも人に誤解される。


「これください、包まなくて結構です、つけて行きます」


衝動買いでもしなけりゃ、自分を保てそうになかった。


鏡に向かって胸元にブローチをつけると、高揚感がやって来た。店の人の「あら、すごくお似合い」という言葉が沁みる。瑞貴はブローチに手を当て、自分自身と約束するみたいに、店の人に言った。


「大事にしますね」


外を歩き、夜風に吹かれる。その風に、今日の敗北感を乗せて、遠くへ飛ばした。


山内 マリコ | 1980年富山県生まれ。大阪芸術大学映像学科卒。2008年「R-18文学賞」読者賞を受賞し2012年『ここは退屈迎えに来て』でデビュー。主な著書に『一心同体だった』『マリリン・トールド・ミー』『逃亡するガール』がある。

 


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