Illustration | Rina Matsudaira
Illustration | Rina Matsudaira
また支店の窓口が閉鎖されるらしい。ロッカールームで制服に着替えながら、そんな噂話が飛び交っている。
「窓口とかATMとかどんどんなくしてる割にさぁ、うちの銀行のアプリ、ぜんぜん改善されないよね」
「ま、アプリが良くなったところで年寄りは使わないでしょ」
「それもそうだ」
あははは、くすくすくす。意地の悪い笑いがロッカールームに広がった。みんな普段からお年寄りの顧客には手を焼いているので、ささやかな反撃といったところ。女子行員にとって、窓口でときに声を荒らげる彼らは、上司よりも煙たい相手なのだ。
「あんなに時間と金があっても、心の余裕ゼロなの意味不明だよね」
 
悪口はなおもつづく。地方銀行の、女子更衣室で繰り広げられる会話といえば日々こんな調子だが、明日香はその輪には加わらない。ロッカーの扉をバタンと閉めると、
「じゃあお先です」
愛想笑いを振りまいて頭を下げた。「はーいお疲れぇ〜」。窓口で出す余所行きの声とはまるで違う、かったるそうな声が後ろで響いた。
フラットシューズでぺたぺた駐車場を横切り、自分の車に乗り込むと、明日香はふぅっと肩で息をした。地元の短大を卒業し、この地方銀行に就職して、あっという間に五年の月日が過ぎている。
五年前、銀行に一般職で就職するのは、このあたりでは勝ち組のルートだった。窓口業務に就き、二十代のうちに地元の人間と結婚して、一〜二年後には出産、育休のあと時短勤務で窓口に復帰というのが。それがいまでは、みるみるうちにAIに仕事を奪われて、窓口閉鎖が相次いでいる。
明日香はエンジンをかけてさっさと車を出すと、混み合ってきた夕方の道路を走り出した。途中、スーパーに寄って食材や日用品を買い、トランクに詰める。再び車を走らせるうちに日が暮れて、山道をのぼるときはハイビームを焚いた。街なかにある支店からゆうに二時間弱をかけて、夜七時過ぎにようやく自宅に到着した。
車から降り、荷物を両手に抱えて玄関ドアを開けると、テレビの大音量が明日香を出迎えた。父は明日香が帰っても見向きもせず、4Kの大画面に没入している。缶ビール片手にバラエティ番組でゲラゲラ大笑いしていた。
「ただいま」
ちょっと険のある明日香の声に、
「あ、おかえりぃ〜」
父はまったく悪びれたところのない朗らかさで返すと、大きな笑顔を見せる。無邪気というか、人の気も知らないでというか。
明日香は冷蔵庫に買ってきたものを詰めながら、夕飯の献立を頭の中で練った。ツルムラサキを湯がいておひたしにして、昨日の南蛮漬けの残りと、冷奴でいいか、あとは買ってきたお刺身を並べて……。自分でも惚れ惚れするような処理スピードで献立を決め、手を動かす。お皿に次々盛り付け、テーブルに色とりどりの小皿を並べた。
「おう、できたか」
 
父はそう言うと、億劫そうにテーブルの椅子に移動して立て膝で座り、平らげていく。箸でつまんだお刺身を、舌で迎えに行くような食べ方で。いただきますも、ごちそうさまでしたもない。食事を用意してくれたことに感謝する素振りは清々しいほどゼロだ。明日香がこうして家のことをするのは、至極当然と思っているのだ。女なんだから当然という態度。銀行の窓口にも、そういう態度の客が来る。上司からもしょっちゅう感じる。けれど父から向けられるこの態度が、いちばん明日香を疲弊させた。
自分が透明人間になった気持ちがする。
明日香の人生は、ずっと明日香のものではなく、父のものだった。うちから通える地元の短大に進学したのも、銀行に就職したのも、みんな父が決めたことだった。無論、この山奥に手作りのログハウスを建て、家族四人で移住したのも父の発案である。“ 家族 ”という船の船長は自分だと信じて疑わない男。どこへどう舵を切ろうが俺の勝手、そんな理屈をふりかざし、家族を従えて、ここまでたどり着いた。
まだ幼い明日香と弟は、大自然に歓喜したものだ。カブトムシを捕まえ、犬と猫とヤギを飼い、冬は暖炉であったまる。幼少期の記憶は幸せなものだった。その記憶のせいで、明日香は父を、いまも嫌いになれない。
 
父に対して、最初に音を上げたのは母だった。慣れない山暮らしに心身を壊し、入院。そのまま実家に帰ってしまって、後日、離婚届が送られてきた。そのときは母への怒りに駆られたが、彼女の役割をこなすようになってからは、その気持ちが痛いほどわかった。
次にこの船を降りたのは年子の弟だ。東京の大学に入学してからというもの、一年目までは帰省もしたが、ぱたりと音沙汰がなくなった。けれど父は、それが弟からの無言の絶縁宣言だということにも気づいていない。あいつは東京でがんばっていると、弟のことを話すときはやけに自慢げなのだった。
沈みかけた船を降りそこねた明日香は、いまや二十代の貴重な時間を、父の世話に奪われている。助けて、助けて。そんな思いで日々生きている。
けれどこれは、明日香に限った話ではないのかもしれない。シングルの女子行員たちはみんなどこかしら、助けて、助けて、という思いで生きていた。お給料はけっして多くない。三十代になれば賃金も頭打ちになるし、露骨な肩たたきがはじまるのを散々見せられている。かといって一般職から総合職へ移る道は険しい。四大卒で総合職として働く女性たちだって、出産後のキャリアの低迷は避けられず苦しんでいた。隅々まで昭和の感覚が残るこの地方銀行に、女子という身で、輝くような将来を見出すのは難しい。
そうなると、やはり結婚。なにしろ結婚さえすれば、誰からも文句は言われないし、普通でいられるのだ。この街では「普通」であることがなにより大事だった。普通から外れた人は陰口を叩かれる運命にあった。明日香の父のように。
*
「今日の夜、一人分の席が空いてるから、よかったら来ない?」
会社の先輩から突然そんな誘いを受け、明日香は断るに断れなかった。
その先輩は、女子行員のなかでは“ お局さま ”的なポジションだったし、日頃からミスをカバーしてもらっている間柄。それに、急用が入ったから遅くなると言って、父親を少し困らせてやりたい気持ちもあった。
その鮨屋は、店構えからして違っていた。一見客を拒むような奥まった立地に、藍染めの暖簾がぱらりと出ている。十席もない小ぢんまりした店だが、隅々まで美意識が行き届いて、こんな世界が現実にあったのかと明日香は静かに驚愕した。カウンターは頬ずりしたくなるような白木の一枚板、飲み物は江戸切子のグラスで出された。
「あたし、美味しいもの食べるのが生き甲斐なんだ」
先輩は、そのためなら値が張っても構わないという。けれどそういう贅沢につき合ってくれる友人はそう多くないと嘆きながら、来てくれてありがとねと語った。
「毎日がんばって働いて、そのご褒美に自分のお金で贅沢するのって、いちばんの幸せだよね。そう思わない?」
先輩がそんな人生観を語るなか、明日香はただただ、「こんな美味しいものがこの世にあったなんて」と無垢な驚きを見せるばかりで、会話は噛み合わない。すると、
「ひひひっ」
明日香のとなりから、男の笑い声が漏れた。
あきらかに、明日香の子どもじみたリアクションを笑っている。
「すんません、こいつのことは無視してください」
大将がえんがわの握りを寿司下駄にさっと置きながら、明日香に言った。
 
大将に話しかけられただけでどぎまぎする明日香に、となりの男はまた「 ひひひっ」と笑い、「なんや癒やされんなァ」と目尻を下げている。
「男の人って結局、うぶな女の子が好きなのよねー」
先輩が軽やかな嫌味を響かせ、三人での会話がはじまった。
自分たちは地元の銀行で働いていると先輩が言えば、男は京都から来たと明かした。名刺が交換される。明日香にも一枚、差し出された。
「……光昭さん」
彼は一つうなずくと、日本酒がなみなみ注がれた切子のお猪口を手にして、明日香に近づけた。
「乾杯、乾杯」
先輩に促され、明日香もウーロン茶のグラスを持ち上げる。
「ほなお近づきのしるしに、乾杯」
「乾杯」
明日香は、不思議の国に迷い込んだアリスの気分だ。
光昭という男は鮨屋の大将とは長いつき合いで、一緒に旅行にまで行く仲という。常連さんを引き連れて、食目当ての海外旅行を企画しているのだという。「えぇー羨ましい。あたしも混ぜてほしい」と先輩が言い出し、食通同士の会話はさらに弾む。美味しい店の情報交換がつづいたが、光昭が個人的な興味を向けるのは、明日香に対してだった。
「あんたも地元の人か?」
「地元ですけど、うちはけっこう遠くて」
「へぇ、どのあたりなん?」
「山なんです」
「山?」
「はい、山の中のこういうログハウスに子どもの頃から住んでて……」
スマホに写真を出して、光昭に向ける明日香。
「わ、ええなァ。こないな家やったら住んでみたいで」
思いがけない反応に照れながら、明日香は「けっこう大変ですよ」と謙遜する。男の人に興味を向けられたのははじめてのことで、いつになく饒舌に話した。家に暖炉やピザ窯があることや、薪割りも自分の仕事であることなどを。
「お風呂も自分で沸かして入るんで、すごく大変です」ぼやくと面白がられた。「なんでそんなとこに住んでんのー?」大ウケする先輩に対して、「父親のロマンに振り回されて」苦笑いで答える明日香。
山暮らしは虫との闘いであること、猿や鹿もふらりと庭先に現れること。熊が怖いから柿の木はチェーンソーで切り倒した話に、みんな大笑いする。笑ってもらえると、明日香はなんだか胸がすっきりした。父への憤懣も、ちょっとだけ軽くなった気がした。
そうして楽しい会話を弾ませるうちに、場の空気にすっかり酔いしれた明日香は、つかの間の夢を見ている。この光昭という男と恋に落ちて結婚すれば、あの家を出られる。自由になれる ― 。
けどもしそうなったら、父はなんて言うだろう。誰が俺の面倒を見るんだと怒るだろうか。案外、でかしたと褒めるような気もする。移住組である父は、この街の人のことを下に見ていた。田舎者に嫁にやるくらいなら、都の人間に娘を持っていかれるほうがましだと思うかもしれない。
そのとき、光昭が言った。
「まあ、考えようによっちゃぁ毒親なんかもしれへんけど、聞いてる分には楽しそうやな」
毒親。その言葉は知っていたが、明日香は父に「毒親」という言葉を当てはめたことはなかった。むしろ家族を捨てた母に対して、そう思うことはあったが。そっか、毒親なのか。
その瞬間、なにかがクリアーになった。適切な言葉が当てられた途端に、ここまでせいせいするものかと驚いた。言葉は神だ。たった一言で、靄が風で吹き飛ばされ、心がパァーッと晴れ渡った。
*
明日香は帰り道を運転しながら窓を小さく開け、光昭からもらった名刺を、風にビュンと飛ばした。家を出るために誰かと恋に落ちて、結婚しなきゃいけないなんて、あまりにバカげた考えだと思った。そうだ、職場の近くにアパートでも借りて一人暮らししよう。それで充分、前進だ。
家に着くと明日香は一目散に自分の部屋へ行き、机の引き出しを開けた。いちばん奥に仕舞われているのは、母が家を出ていくとき明日香に渡した、古い指輪だった。母が結婚したとき、おばあちゃんから受け継いだものだという。
明日香はあのとき、むくれながらそれを突っぱねた。「弟が結婚するとき相手に渡すものなんじゃないの?」と唇を尖らせて。母は首を横にふった。
「これは明日香にあげる。次に誰にあげるかは、明日香が決めていいから」
その指輪には、なんの思い入れもないつもりだった。けれどいざ、自分の荷物をまとめようと思うと、最初に手が伸びたのは、母からもらった指輪だった。
母のことを思うと胸が詰まる。いまならもっと優しくできるのにと、後悔が湧き出す。
明日香はその指輪をたずさえて、もう間もなく、この家を出るつもりでいる。自分の人生を取り戻すつもりでいる。人生をやりきったと思えたとき、この指輪はほかの誰かにあげるかもしれない。誰にもあげないかもしれない。
どうするかは、自分で決める。
山内 マリコ | 1980年富山県生まれ。大阪芸術大学映像学科卒。2008年「R-18文学賞」読者賞を受賞し2012年『ここは退屈迎えに来て』でデビュー。主な著書に『一心同体だった』『マリリン・トールド・ミー』『逃亡するガール』がある。